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新総湯

4月21日に新しい総湯が完成し、開湯式を執り行いました。

 

先ず、午前9時より五代目の総湯に対し昭和54年より長きにわたって

地元の者は勿論、近隣の方々や旅行でお見えの方々にまで

療養、湯治、そして保養に、また社交場としての役割や恩恵に感謝を致しました。

 

引き続き午前10時より新総湯にて開湯式を厳修致しました。

 

写真はその法要の際の表白文を読み上げている様子です。

(写真提供はIIGAINE片山津温泉の山みさんです。有難うございます。)

開湯表白

尚、表白文を掲載いたします。

閉湯の儀式での表白文も掲載しましたが、果たして顕わにしても良いのかなぁと思いつつ

アップします。

 

啓白

真言教主大日如来両部界会諸尊衆 殊には瑠璃光山愛染寺御本尊薬師瑠璃光如来日天月天並びに法界擁護十二神将等

一切三宝の境界に白して言さく

それ片山津温泉と者 その歴史を顧みれば諸々の苦難を乗り越え漸く開湯へ導いた先人の魂が籠る温泉地なり

承応二年 大聖寺藩主前田利明公柴山潟にて鷹狩の折 水鳥が群れをなすを見て温泉を発見す

藩費で柴山潟の埋立工事を幾度か試みるも成果を得ることなし

文政六年に羽咋郡の畔鍬恒右衛門ら 明治三年には片山津村の藤澤長三郎等々泉源を確保すべく試みるもこれまた成果を上げるに至らず

明治六年片山津村の廣瀬次郎七 金沢の田嶋政房らの工事も資金底をつき道半ばで断念す

明治九年県の役人近藤重人幸卽は 近藤幸一 中西定一らと苦心の末埋立工事に成功し翌十年に近藤 中西の両名は温泉宿を開業せり

然るに湯量十分でなくその増加を企て掘削を行い十五年金沢観音堂村井戸掘り森仁平を招き成功を収める

掘削を推進したる北出長與門ら六名は六名者と称され 森仁平は湯出しの

仁平と言われ自ら姓を湯出と改める

片山津温泉は今年開湯百三十年を迎えし節目の年なれば開湯元年は湯量の

増加に成功したるその明治十五年をもってす 日は六月二十八日なり 程なく皆が温泉に入れる浴場を設ける それを総湯と言う

それ総湯の総とは中世以後成立したりし村民全体にて行動する意味合いの惣が転じたものなり 総湯とは温泉や入浴利用の場が共有財産の一つとしてみなされてきたことから生まれた言葉なり 天の恵みの温泉は誰のものでもなく皆の宝 地域社会で共有し利用すべきとの意味深きものなり 歴史を重んじ倣うことこそ今まさに求められし心なり 目先の利益を求むべからず 重々肝に命ずべし

さて愛染寺は明治二十年代に入り温泉を守護しこの地も人々も守る御仏とお寺が必要との強い願いで金沢より迎えられしものなり

温泉は即ち湯治 故に御本尊を薬師瑠璃光如来とし片山津で一番の高台に

堂宇を建て信仰す

仄かに惟れば薬師瑠璃光如来とは医王善逝の佛にして浄瑠璃光の法界の主尊なり その本願経に十二の大願を約し給い 千万の衆生を導くに衆生を我が子と見そなわし 瑠璃の恵光は能く惑業煩悩の闇を破り 隈なく三妄の業魔を払うなりと 其の威力真に広大にして如何なる魔力業障にも敗することなき無限の偉力と功徳を秘するなりと

就中 み手の薬壺と見れば 四大無数の生死の病魔を召入し理智の教薬を施すなり 亦其の誓願の広大なること 泰山も是に喩うること無く 紅海も其の恩に比ぶるに足らず 而も業縛の障碍に苦しむ者と雖も 一度なりとも真の懇念に住すれば長寿を得るなりと

眷属日光月光の二菩薩は左右に在って定慧の徳を施し 十二神将は前後に従い 七千の夜叉を眷令して帰依の族を守護し 六道衆生に利益を廻らし給うこと限りなく 一度その名を耳にせん者 衆病悉く癒し給う 豈に尚 我らが何の相応の懇請にあらずんば 転業増福の益を施さざらんや

方に乞い願わくば本日 無事完成したりし新総湯の開湯式にあたり正法仰信の寺前秀一加賀市長ら 薬師瑠璃光如来の教益を仰ぎ その利益に授からんと欲し 妙供を調え壇前を荘厳し 浄心を凝らし甚深の妙典を読誦し如来の請願を待つものなれば 本誓訛たず妙益を垂れ 温泉繁栄 衆病悉除を成就せしめ給え

乃至法界平等利益

 

維時 平成二十四年四月二十一日

瑠璃光山愛染寺第三十三世 秀岳 敬白

 

2012年4月22日